だから仏教は面白い! | ニー仏 | 魚川祐司

『だから仏教は面白い!』絶賛発売中!

 

仏教の「ヤバさ」、仏教の核心とは何か?そして、仏教の実践でいったい何が起こるのか?

 

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まえがき
第一章 仏教はヤバいもの
・なぜ仏教は「ヤバい」のか?
・異性とは目も合わせないニートになれ!
・世の流れに逆らうもの
第二章 仏教の核心
・ゴータマ・ブッダのシンプルな教え
・ただ在るだけでfulfilled
・永遠のRPGのレベル上げ
・金パン教徒
第三章 仏教の基本
・仏と菩薩
・ブッダと阿羅漢
・「小乗」仏教と大乗仏教
・ゴータマ・ブッダの教説の基本構造
・仏教の基本用語

第四章 無我と輪廻をめぐって
・無我と輪廻の「問題」
・「無我」の不思議
・「常一主宰」のアートマン否定
・無常・苦・無我の三相
・出世間と「無記」
・経験我と実体我
・業とは何か
・輪廻の仕組み
・輪廻に「主体」はない
・文献的にも輪廻は説かれた
・「はずだ論」の欠陥
・実践的な観点からの輪廻理解
・テクスト解釈と個人の信仰

 

第一章 なぜ仏教は「ヤバい」のか?

 

ニー仏:今日から連続八回の仏教対談講義をはじめていきます。まず、初回のテーマは「仏教はヤバいもの」ですね。どうぞよろしくお願いします。

 

―よろしくお願いします。

 

なぜ仏教は「ヤバい」のか?

 

ニー仏:さて、「仏教はヤバいもの」というのは、私が仏教の話をするときにいつも最初に言うことなんです。なぜこれを最初に言うかというと、とくに近代日本で仏教が紹介される時というのは、この仏教の「ヤバい」ところをオブラートに包むというか、隠して話をすることが多いんですね。もちろん、それはそういうふうに話をしたほうがみんな仏教に親しみが持てる、ということでそうしているのだと思うのですが、私としては、まず、この「仏教はヤバいもの」であるということ。そのことを、最初にごまかすことなくきちんと言うべきだと思っているわけです。

 

―はい。

 

ニー仏:それで、「ヤバい」というのは具体的にどういうことかというと、例えば、仏教というのは「人間が正しく生きる道を説いたものだ」とか、そういった紹介の仕方をされることがしばしばあると思うのですが、実際にゴータマ・ブッダが弟子に教えていることを見てみたら、彼は「人間が正しく生きる道」を主題的に教えているわけでは必ずしもないんですよ。まあ、「教えていない」と言ってしまうと語弊がありますが、少なくとも私たち現代日本人一般の価値観からすれば、非人間的に見えても全くおかしくないようなことを、彼は普通に説いているわけです。

 

そのことを、まずはっきりと認めた上でないと、後の大乗仏教も含めた仏教史全体の理解も歪んでしまうことになるんです。だから、みなさんそこを分かってくださいね、ということで、私は絶対にごまかしてはいけないこととして、この「仏教はヤバいものなんですよ」、という話から、いつも仏教の話をはじめることにしています。

 

―うーん。でも、仏教というと、私たちに「正しい生き方」を教えてくれるもので、それにしたがえば「いい人」になって「幸せ」になれる、というイメージはたしかにありますよね?

 

ニー仏:そうなんです! たとえば、よくある仏教の紹介の仕方として、仏教は「人生の処世術として役に立つ」なんてものがありますね。あるいは、「仏教には慈悲の教えや戒律の教えがあるから、仏教を実践すれば、優しくて健全な人になれますよ」とか、「瞑想をすれば頭がよくなります」などと言う人もいます。

 

―ち、違うんですか?(笑)

 

ニー仏:もちろん、仏教がそれらを否定しているというわけではないんですよ。「優しくて健全な人になるな」というふうに言っているわけではないですからね。

 

ただ、そのような効果、つまり、頭がよくなったり、優しくなったり、健全になったりということは、あくまでゴータマ・ブッダの教説の本筋・本来の目的からすれば副次的なことなんです。なぜなら、ゴータマ・ブッダの教説の最終的な目的は、社会の中でそのメンバーとして上手に振る舞うとか、そこで役に立つとかいったことを、「すべて乗り越える」ことですから。したがって、本来的には、ゴータマ・ブッダの仏教というのは、「社会の中で人間的に役に立つ」ための教えでは全くないわけです。そのことをまずはっきりと押さえておかないと、仏教についての全体的な理解もおぼつかなくなってしまうと思います。

 

―むむむ(笑) そこはぜひ、もっと具体的に聞きたいですね。

 

ニー仏:はい(笑) 順を追って説明していきますね。では、まずゴータマ・ブッダが悟った後に説法を躊躇(ちゅうちょ)した、つまり他人に自分の悟った内容を語ることをためらって、一時は説法しないでそのまま死んでしまおうと思っていたことはご存知ですか?

 

―ちょっと聞いたことがあります。梵天勧請(ぼんてんかんじょう)(ブッダのところに梵天が現れて、説法してくれるようにお願いしたこと)の話でしたっけ?

 

ニー仏:それそれ。ではブッダがなぜ「自分の悟ったことは人に喋らないでおこう」と考えたかというと、それは彼が自分の教えを「世の流れに逆らうもの(パティソータガーミン)」だと理解していたからです。つまり、「普通の人だったらこうするよね」ということとは、逆のことを教えるのが自分の教えだと。だから、どうせ教えても普通の人は自分の言っていることがわからないだろうし、ゆえに説法しても疲れて悩むだけだろうからやめようと思った、ということなんですね。

 

―へええ。

 

ニー仏:だから、ゴータマ・ブッダ自身も自分の教えが必ずしも人間的なものであったり、世の中の人がみんな喜んでやるようなものではない、ということは分かっていたわけですよ。それが分かっているから説法躊躇したわけです。

 

 

異性とは目も合わせないニートになれ!

 

―ブッダの教えのどこが「世の流れに逆らうもの」なんですか?

 

ニー仏:そこですね。現代風にわかりやすく、比喩的に言うとすれば、ゴータマ・ブッダは解脱を目指す自分の弟子たち、つまり出家者に対しては、「異性とは目も合わせないニートになれ!」と教えていたんです。

 

……

 

 

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「世界」を終わらせるということ、仏教の実践、「悟り」はあるかないか問題etc

 

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第五章 「世界」を終わらせるということ
・「悟り」について
・仏教の問題領域
・「無記」の理由
・「世界」とは何か
・「世界」を終わらせるということ
・「世界」が終われば「苦」も終わる
・なぜ我執が形而上学的な認識に繋がるのか
・「世界の終わり」に行く方法
第六章 仏教の実践
・仏教における「行」の意義
・「考える」だけでは悟れない
・認知を転換するための具体的な方法
・なぜ「無記」だったのか
・この講義の「使用法」
・戒・定・慧の三学

・なぜ定が必要なのか
・智慧の意義
・気づき(マインドフルネス)の実践
・なぜ「放逸は死の道」なのか
第七章 「悟り」はあるかないか問題
・「智慧」とは何か
・現代日本には、なぜ「悟る」人が少ないのか
・解脱は「人格の完成」ではない
・決定的で明白な実存の転換
・解脱するのは難しい

 

・「ただ気づき続けている」という以外のこと
・世間と涅槃の「二元論」
・聖者として「苦」を知ること
・実践と「自由な選択の余地」
第8章 『仏教思想のゼロポイント』へ
・全体のまとめ
・『仏教思想のゼロポイント』へ
・むすび

 

第五章 「世界」を終わらせるということ

 

ニー仏:連続講義も第五回目、後半に入りますね。よろしくお願いします。

 

―よろしくお願いします。

 

「悟り」について

 

ニー仏:さて、これまでは縁起や四諦、あるいは無我や輪廻といった、仏教の基礎的な教理に関する話をしてきました。そこで今回からは、いよいよ本講義のメインテーマであるところの解脱や涅槃、即ち、仏教の究極的な目的であるところの「悟り」に関する議論へと、進んでいきたいと思います。ひょっとしたら、このあたりが皆さんのいちばん関心のあるところかもしれませんね。

 

―やはり「悟り」こそが、仏教の本質であり究極であるという意識がありますからね。

 

ニー仏:ええ。ただ「悟り」というのは豊かな意味の広がりを含む、敢えて悪く言えば曖昧な言葉ですから、扱いには注意が必要です。例えば、第三回の講義でお話ししたように、同じく「悟り」という言葉で表現され得ても、ブッダの「悟り」と阿羅漢の「悟り」では、教理的には内容の差異がある。あるいは、多様に存在する仏教の各セクトのあいだでも、それぞれが究極だと考えている状態には、実際には微妙な差異を見出すことが可能です。したがって、一口に「悟り」といっても、そこには様々に異なった内容が含まれることがあり得ますから、この言葉を使う時には、それがどのような意味における「悟り」なのかということを、明確にしておかなくてはなりません。
―なるほど。

 

ニー仏:ですから、そのような曖昧な言葉はできれば使わないほうがいいのですが、とはいえご指摘をいただいたように、「悟り」というのは仏教の本質的なイメージとして定着してしまっているものですから、一般にはこの言葉を使って語ったほうがわかりやすいこともあるかもしれない。そこで、本講義ではカッコを付しつつ、「経典のゴータマ・ブッダが説く解脱・涅槃」を指す用語として、適宜「悟り」という言葉も使っていくことにします。

 

―わかりました!

 

仏教の問題領域

 

ニー仏:さて、今日のテーマは「『世界』を終わらせるということ」でして、ひどい厨二病のようなタイトルがついています(笑)

 

―(笑)

 

ニー仏:これはどういうことかと申しますと、今日はゴータマ・ブッダの仏教の問題領域についてお話をしたいんですね。例えば、これも第三回の講義で、仏教における「迷い」と煩悩についてお話ししました。そこでは、「迷い」というのは「悪い癖」、即ち、自らを苦に導いてしまうような、衆生の習慣的な認知のパターンである、という話をしたと思います。

 

― 「おっぱい」というのは、実際には目に入ってきている色の組み合わせにすぎないのに、私たちはそうしたセンス・データを観念の中で「おっぱい」という構成物へと形成しあげて、それに執着して右往左往することで「苦」の状態に陥ってしまう。例えばそのような「悪い癖」が、私たち衆生にはついている。そういうお話でしたね。

 

ニー仏:そうです。そして、そのような「癖」、つまりは習慣的な認知のパターンは、仏教的に言えば無量の過去生のあいだに積み上げられた業の潜勢力によってそうなっているのであり、現代風に言えば遺伝子レベルで私たちに染みついているものですから、「これはくだらないことだからやめよう」と頭でただ考えてみたところで、直ちにやめられる性質のものでは全くない。そういう話もいたしました。

 

―はい。

 

ニー仏:では、ここからわかることは何かと申しますと、ゴータマ・ブッダの仏教というのが、基本的には衆生の認知の領域を問題としているということです。衆生というのは、私たち人間も含めた感覚のある生き物たちのことですね。仏教というのは「転迷開悟(迷いを転じて悟りを開く)」の宗教だと言われますが、その「迷い」というのは、衆生の認知の領域において生じていることである。だから、それを「転ずる」ということは、衆生の習慣的な認知のパターンを転換するということであり、そうすることによって「悟り」を開くこともできるということになるわけです。

 

―なるほど。

 

ニー仏:そして、経典のゴータマ・ブッダが「世界(loka、世間)」だと言っているのは、そのような欲望を伴った凡夫(悟っていない衆生)の認知の領域のことなんですね。ですから、「悟り」を開くということは、言い換えれば、そうした意味での「世界」を終わらせることに他ならない、ということになる。今日は、そんな話をしてみたいと思います。

 

―楽しみです!

 

……

 

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仏教思想のゼロポイントについて

 

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『だから仏教は面白い』後編より

 

ニー仏:さて、本講義の内容は以上になりますが、「まえがき」にも書いたとおり、これらは『仏教思想のゼロポイント』で扱ったトピックのうち、入門的なものをいくつか選んで親しみやすく語ったものですから、本書では述べきれなかったことも、当然ながら多く残されています。

 

―販促タイムですね!(笑)

 

ニー仏:はい(笑) 具体的に申しますと、『仏教思想のゼロポイント』では、以下の二つの問題が主題的に論じられます。即ち、

 

一 ゴータマ・ブッダの言う解脱・涅槃とは何か
二 ゴータマ・ブッダは「悟った」後、なぜ死ななかったのか

 

という二つです。

 

―一番目のほうは、本書の内容とも重なっていますね。

 

ニー仏:そうです。今回の連続講義では、「ゼロポイント」における「ゴータマ・ブッダの言う解脱・涅槃とは何か」という問題に関する議論のうち、入門としてふさわしい部分を選んで、基礎的な知識を補いつつ、そのアウトラインをお話したわけです。

 

―そうなんですね。では、二番目の「なぜ死ななかったのか」というのは、どういう問題なのでしょうか?

 

ニー仏:本連続講義の内容からもわかるように、解脱を達成したゴータマ・ブッダは、「世界」を滅尽して、「欲望の物語」からは離れた境地に至った人であるはずです。そのゴータマ・ブッダが、「悟った」後にもこの世界で生きることを続け、しかも衆生への説法も行うという、「物語の世界への再度の介入」を敢えてしたのは何故であるのか、という問題ですね。

 

―「おっぱい」を「単に目に入る色の組み合わせに過ぎない」と「如実知見」するに至った人が、「おっぱい」を「おっぱい」だと認知して執着している「物語の世界の住人」に、それでも再び関わろうとした理由は何か、ということでしょうか。

 

ニー仏:はい。この点は、そもそも「なぜそれが問題なのか」を理解すること自体がなかなか難しいことなのですが、それだけに、仏教について真剣に学んで考えることをしてきた人が、必ず当面しなければならないハード・プロブレムにもなっています。この問題を、「ブッダは最初から衆生を救うために出家したのだから、悟った後に彼が説法をはじめたのは当然だ」などといった形で、ごまかしてしまっては絶対にいけません。

 

―なるほど。『仏教思想のゼロポイント』では、その難問題の解決が行われると。

 

ニー仏:そうですね。まず、「ゴータマ・ブッダの言う解脱・涅槃とは何か」という第一の問題について、本書よりもさらに包括的な議論を行った上で結論を示し、それに基づいて第二の問題についても考察して回答を与えます。そして、この二つの問題の検討と回答を通じて、「仏教とはそもそも何であるのか」ということを理解するための、一つのパースペクティブ(見通し)を「ゼロポイント」では提供します。

 

―それは楽しみですね!

 

ニー仏:もちろん、仏教史全体を通観して仔細に検討することは、一冊の本においてはとても不可能ですから、あくまで「経典から知られるゴータマ・ブッダの仏教」を中心として扱いつつ、そこに見られる根源的な思想の構造を明らかにする、という性質の議論です。ただ、これまで日本語の仏教書では正面から論じられることがほとんどなかった問題を多く取り上げていますから、仏教を「わかる」ための新しい視角の一つを、読者の皆さんに提供することはできるかと思います。

 

―本講義で語られていたことは、「ゼロポイント」にも含まれているんですよね。

 

ニー仏:ええ。「おっぱいの喩え」以外は、だいたい入っていますね(笑)

 

―「おっぱいの喩え」はないんですね(笑)

 

ニー仏:はい(笑) ただ、本講義は初心者向けの入門ということで、何よりもわかりやすさを優先してありますから、パーリ経典の引用などは、あまり出典指示を厳密にはしていません。しかし、「ゼロポイント」のほうでは当然のことながら丁寧に典拠を示してありますし、引証の数自体も増えていますから、議論はより精緻で包括的なものになっています。

 

―それは難しいということでしょうか?(笑)

 

ニー仏:細かすぎる話は注に書いてありますから、文献学的なことにはそこまで関心のない方は、本文だけを普通に読んでいただければ問題ないようになっています。そこは、どうぞご心配なく(笑)

 

―よかったです!

 

ニー仏:本連続講義で書き足りなかったこと、引証や論証の不十分であったところが、「ゼロポイント」では丁寧に語られている部分もありますし、逆に「ゼロポイント」で精緻に語られている部分が、本講義のくだけた文体で読んでみると、わかりやすく理解される、ということもあるかもしれません。『仏教思想のゼロポイント』は2015年4月の発刊予定ですので、本書と適宜併読しつつ、ご利用いただければと思います。

 

―販促ありがとうございました!(笑)

 

 

ニー仏 (本名:魚川祐司)

 

1979年生。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。学部時代の専攻は西洋哲学。大学院ではインド哲学仏教学を専攻。2009年末よりミャンマーに渡航し、テーラワーダ仏教の教理と実践を学びつつ、「ニート、仏教、価値、自由」について研究中。ミャンマーのテーラワーダ僧侶、ウ・ジョーティカ師の著作『自由への旅』等を翻訳し、「ミャンマー仏教書ライブラリー」にて無料公開を行っている。サンガジャパンVol.15「戒律」に‘『自由への旅』をめぐって’を寄稿。

 

ミャンマー仏教書ライブラリー

 

 

 

 

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